撮影:金子千裕

 

このタワーを見上げるのなら、いつも曇り、もしくは雨。

 

ぬかるむ靴音に気を掛けながら、慣れたワークショップルームに入る。心地よいさざめき。
生活工房主催の美術ゼミ『みっける365日』は本開催の3回目を迎え、
所属生たち同士の交流もあわく色を重ねつつあった。
広い部屋には4つの大きなテーブルがある。
その一つずつにMacと録音機材が据えられて、ぐるりに分かれたゼミ生が座る。

 

 

2017年5月13日(土)雨

『みっける365日』第3回ゼミ


 

 

今回は海外渡航中のサポートアーティスト・キュンチョメがSkypeにてゼミを行うほかは、
北川貴好、青山悟、タノタイガ各氏がそれぞれのテーブルに陣取る。
年始の活動当初こそ全体の段取りがあったものの、
回を重ねるごと場の持つインプロヴィゼーション性や、
待ち受けるサポートアーティストそれぞれのシラバスに任せられた進行をたどる。
つまり、俯瞰的にいうとこうなる。
「すべての現場を一度に目撃できるものは、一人もいない」──

 

わたしは外様の《みっける探偵》として全体の醸成を探りながら、
個別に留意すべき物件、含みある発言、示される遺留品などを採取せねばならない。

 

 

 

 

声を大にするほどのことでもないのだが、
とかく探偵稼業がハードボイルドとみなされる世論にも理由があって、
膨大な情報量の現場から、記録に値する「ある点」を抽出しつづける、その取捨選択の連続がハードだからでは、と思う。
世の女性を虜にしてきたタフガイ探偵たちが一様に、
難しい顔ととろけた表情のギャップを得意とするのは、
そんな稼業の「しんどい感」「こめかみにウメボシを貼り付ける感」がまことの理由でもあろう、と実感するのがこの日であった。

 

職業人としてのマインドセットが打ちのめされるほどの「情報量」そして「現象」。

 

膨大なデータそれぞれに、意味の軽重を決めつけるのは探偵のビジネスではない。
みっけること。些事であれ、収集すること。
砂漠にピンセットを持ち歩くようなその動きこそ、わたしに課せられた依頼である。

 

思案を巡らす時などすぐに、終わる。

主宰・北川貴好の音頭とともに、各ゼミ、スタート。

 

 

 

 

北川貴好ゼミ ──追加的

 

 

頭領みずから牽引するこのゼミはいつも、「みっける」という美術のど真ん中を印象付ける。
北川貴好はぬるり、飄々とした独特の姿や雰囲気をもって、柔和な空気を場にもたらす。
写真を撮りためる、という作業を通じてゼミ生が日常になにかを「みっける」こと。
この手法のど真ん中という展開が、探偵にいつも初心をくれる。
それほどまでに、他ゼミの展開が独自路線、ということでもあるのだけれど。

 

そして気付きをくれる。過激さイコール美術ではない。
強い感情のブレだけが良し悪しでもない。良し悪し、という尺度のそもそもについて考えろ。
もちろんそれは、超絶テクニックだとか、振りきれ感を否定する態度でもない……。

 

「でもない」と呼べるような、何かを含み、あるいは含まないこともあるよ、
というぬるりとした、腑に落ちる感じ。
誰でも「当たる」ように構成された、占いページのような面白さ、ムード、
そうしたものを各員が自分のなかで肯定していく、というような。

 

 

ときにゼミ生一人ずつを別室に呼び出して、
集中的な個別のかかわりを重ね、全体のテーブルで持参された写真データを検分する。
ゼミ生の個人を深めつつ、全体の関わり合いも醸成する。
切り替えと畳みかけを繰り返すのが、北川貴好のアプローチのひとつだろうか。

こうして戻った全体のテーブルでは、ゼミ生たちから持ち込まれた小さな気付きや日常に、
「そういえばあまり考えたことのなかった断面」「大根ってこんな切り方、できたんだなあ」というような細かなやり方を、
少しずつ、じわじわと、追加していく。
今回の北川貴好ゼミが印象付けたのは、そうした緻密な計らいだった。

 

 

青山悟ゼミ ──魔法的

 

 

大きなテーブルには、なにやらゼミ生たちの私物が積み上げられている。
売れる作品を作る、とアーティスト自ら豪語する青山悟ゼミでは今回、
「身の回りのものを3点。それらを用いた制作」が課題とされていたようだ。

 

おのおの持ち寄り品についての歓談や、
アーティストその人が手掛けた作品データの閲覧を進ませながら、自身の言葉は巧みに躍る。
笑声。感嘆。こうした共有感の沸き立ちの、すべてが個人制作につづく道。

 

 

士気の高まったところでそれぞれがテーブルを離れ、床に模造紙を広げたり、
スタンドに品を立てかけ装飾したり、おもむろに米袋をぶちまけたりと、思い思いの作業がスタート。
回遊する青山悟がそのひとつずつにヒントや手作業を追加して、必要な機材を持ち込ませる。
ビビディ・バビディ・ブー。かぼちゃは、馬車に。

 

 

アーティストのわずかなひと振りで、瞬間、品々が美術になる。
ゼミ生たちの貌が変わる。一般に現場と呼ばれるに適切な、それは制作の空間だった。

 

 

キュンチョメゼミ ──二次元的

 

 

一見、にやりとさせられる。このゼミは、Macとラップトップを組み合わせた通信モニターが机上の主だ。
わたしは囲むゼミ生の姿に、街頭テレビの力道山を見つめる人びとの熱を思い出した。
時は1950年代。……生まれてないじゃん、というささやかな事実だけが、たったひとつの悔恨である。

 

 

キュンチョメは遠きシンガポールから、Skypeの動画・音声で教鞭をとる。
ゼミ生もその「遠距離恋愛」にのめり込む。
世田谷から送り出す画角をより広く示すため、ラップトップを持ち上げたりかしがせたりと、格闘する。
調査中のわたしはふと思う。
二次元ギャルゲーに没頭する男子たちも、同じ仕草をとるのかもしれない、と。

 

横倒しのラップトップに毛布をかけてあげるような、シンプルな恋。
「二次元恋愛と、ゼミと、美術」。これはまた別のファイルに付箋するべき物件である。

 

 

タノタイガゼミ ──求心的

 

 

 

ぐるぐると色の踊るMacに釘付けとなるのが、タノタイガのテーブルだ。
「制作テーマを決めあぐねるゼミ生がいる。
まずは僕がどんなことをしているのか、見てもらうことに意味があると思って」と、
パフォーマンス動画をはじめとした作家本人の作品開陳、および生解説がゼミ生に向け、畳みかけられていく。
『みっける365日』におけるタノタイガの正装は、スーツ(理由は「教師っぽいから」)。
モニター内で次々起こるハプニングと、生解説していく作家の身振りがギャップを生んだ。

 

 

多くが個にもとづくテーマを問うてきた、ゼミ生たちが集中していくのが分かる。
しかもどの情報も、強い。
モニターと本人という、ばらばらの表現や表情から注ぎ込まれていく「さまざまなタノタイガ」像の一体ずつが、
フォルテシモでゼミ生の心のなかに入るようだ。

 

 撮影:金子千裕

 

どんな状況といえるのか、わたしの話を代入しようと思う。

 

常に気を張る探偵のような稼業こそ、オフは努めてぼんやり過ごしたい、と願う。
近視がメガネを外すように、危険なもの以外をほぼ沈ませて、
「なんとなくぶつからない場所」程度のゾーンを確保したまま、五感をあえて鈍く過ごそうとする。
なぜなら、疲れないから。

 

しかしタノタイガの映像と本人の語りを合わせた空間といえば、真逆の印象なのだった。
ステージの上で、主役とガヤが立場のプラマイをわきまえる忖度というか、調整が、ない。
ステージ上のタノタイガA、B、C、Dがそれぞれ主役を主張しているようだ。

 

このようにして見どころ、聞きどころ、感じどころの裂かれるような体験に呑みこまれていくゼミ生たちは一様に、
微笑んだり、一転して固唾を呑んだり、性的な印象を仄めかされたりと、
めまぐるしい表情を浮かべていく。それがタノタイガゼミの一面だった。

 

 

すべてのゼミの現場において、作家に誘引されていく、同空間、同時刻の、その現場。
『みっける365日』は展覧会における制作発表をゴール地点に据える美術であり、
その日にいたるまでの「365日」そのものもまた美術だろう。

 

たとえるのなら、正月の大学駅伝を心待ちにする視聴者が、
テレビに映るハレの箱根のみならず、年間通じて激戦と鍛錬を重ねてきたランナー一人ずつのドラマ自体を、
画角の外で楽しみにしている、というような。

 

駅伝ランナーはお盆もクリスマスも走るだろう。

「みっける」ゼミ生が毎日を、美術への関わりとともに、過ごすように。

 

 

時計を見上げる。

各ゼミの個別の時間が終わりを告げようとしている。

 

そろそろ、と、青山悟ゼミの制作発表に移ろうとする、同じころ。

微細をそのまま採取する、この探偵ファイルはまさに、紙幅が尽きようとしている。

制作発表に関わる発見は、次回に持ち越す。探偵の目撃を、しばし待たれよ。

 

To be continued……

 

※  このお話は実話を基にしたフィクションです。

 

 

【著者略歴】

森田幸江(もりたゆきえ)

アメリカ大使館ライター、学芸単行本、カルチャー系雑誌編集、電子書籍シリーズ編集などに従事するフリーランス著述者/編集者。コミック原作、小説、取材構成などの打席にも立つ。1979年生まれ、日本女子大学文学部卒、右投げ右打ち、贔屓球団は広島東洋カープ(年間40試合を現地観戦)。